Facebookでアラスカのお友達
Facebook으로 알애스카에 친구가 생겼어요.
2011.11.28(Mon)

 いま通っている教室の先生は、若いのに、言葉のニュアンスを徹底的に話してくれるので大変満足しています。新しい日本語を聞いたら徹底的に研究する。それにぴったりの韓国語はどういえばいいか。言葉探求に熱心な先生です。だから面白い。外国語を学ぶということは、文化がちがうから、辞書を調べて単語を置き換えれば訳ができるというような単純な話ではない。深い言葉の奥が、そして心が読めなくては会話などできはしない。これはどこの言葉を学ぶにしても共通しています。


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 私はFacebookには関心はありませんでした。

 난 Facebook에는 관심이 없었어요.

 友達とメッセージをやり取りしても、ただそれだけなら、面白くもないし、そんな時間はありません。

 친구가 되어서 시지를 주고받지도 그만이면주고받는 건만으로라면 재미없어요.그 시간이 없어요.

 しかし、私には或る目的があって、Facebookをはじめました。

 그러나 나에하나의 목적이 있어서 Facebook을 시작했서요.

 私の父系の故郷は、祖父も、祖母もみんな石巻市です。

 나의 부계아버지쪽 고향은 할아버지도 할머니도 다 이시노마키 시예요.

 私の祖母の従兄に「安田恭輔」という人がいました。

 내 할머니의 사촌 중에 "야수다 교수게"라는 사람이 있었어요.

 彼は或る事情があってアラスカに渡りました。そしてイヌイットの女性と結婚しました。

 그는 어떤 사정이 있어서 알래스카로 건너갔서요.그리고 이뉴잇 여자하고 결혼했어요.

 そして何年か後に、彼はイヌイットのリーダーになりました。

 몇 년(이란) 세월이 흘러 그는 이뉴잇의 리더가 되었어요.

 大飢饉に遭ったイヌイットを引き連れて新天地を求めて旅立ちました。

 대기근을 만난 이뉴잇을 데려데리고 신천지를 찾아 길을 떠났어요.

それで今でもイヌイットたちは安田恭輔のことを「アラスカの救世主」とか、「アラスカのモーゼ」と呼んでいます。

 그러니까그래서 지금도 이뉴잇 들은 아수다 교수케(프랭크 아수다)를 "알래스카의 구세주"나 "알래스칸 모세"라고 불러요.

 その話が新田次郎氏の著書である「アラスカ物語」です。アラスカの人々は恭輔のことを「フランク安田」と呼びます。

 그 이야기가 니따 지로 씨의 저서인 "알래스카 이야기"예요.이뉴잇 들은 교수케를 "프랭크 야수다"라고 불러요.

 アラスカにはフランク安田の子孫が沢山います。彼らは日本にいる安田一族(姓はちがっていても血縁者)について知りたがっています。

 알래스카에서는 프랭크 야수다의 자손이 많이 있어요.그 들은 일본에서 있는 야수다 일족에 관해서 알고 싶어 했어요.

 私は彼らに一族の情報を提供するためにフランク安田の曾孫である、Jason Devlinさん(40才くらい)とFacebookでお友達になりました。その他にも13人とも友達になりました。

 난 그 들에게 혈족의 정보를 제공 하기를 위해서 프랭크의 증손인 Jason Devlin 씨하고 Facebook으로 친구가 되었어요. 그 밖에 13사림하고도 친구가 되었어요.

 やり取りは全て英語ですから骨が折れます。彼らは大変喜んでくれています。

 메시지 주고받음이 다 영어로니까여서, 힘이 드는 일이에들어요.그 들은 나에게 감사해요.

매시지 ⇒ 몌시지
매と메はカタカナで書けば、どちらも「エ」しかし音はちがう。つい混同してしまう。同様に개と書けば犬であり、 게と書けば「蟹」になる。どちらもカタカナで書けば「ケー」、しかし発音はちがう。

 주고받지도:やり取りしても、그만이라면:それだけならば、⇒ 주고받는 건만으로라면:やり取りするだけならば
と訂正。なるべく単純な言い回しの方がいいということだと思う。

"그런"⇒"그럴":これは混乱する。"그러다"(そうする、そう言う)という言葉があって、自動詞。自動詞に「-ㄴ」をつければ過去形連体形になる。ところが別に"그렇다"(口語体では그러하다:そうだ)という形容詞があって、"그런"は現在連体形で「そんな」となる。
 私は形容詞の「そんな」のつもりで使ったけれども、いずれにしても現実の目の前の行為ではないから、未来形「그럴」とするのが一番いいということ。これだったら動詞も形容詞もない。こういう微妙なところが外国人には分からない。まして会話で瞬間的にこんなことを判断するのは難しい。身体でひとつひとつも身につけるしかない。気が遠くなるような遠い道のりである。こういうことは英語も韓国語もない。日本人どうしで練習してうまくなるはずがない。1度悪いクセがついたら後にネイティブかそれを修正するのは困難。

私に」の「」は人以外であれば、「에」でよいが、人の場合には「게」をつけて「에게」これは単純ミス。
」には、「ひとつの、同じ、或る、およそ、恨み、限り」など、様々な意味がある。「或る目的、ひとつの目的」という気持でこの「한」を使った。しかし「하나의」と訂正になった。
「하나의
」はまさに「ひとつの」である。この違いというのは、辞書ではまず区別がつかない。微妙な違いは外国人である私には分からない。訂正されてひとつひとつ身につけていくしかない。

日本語で「父方の」「父系の」でよいが、韓国語では「漢字語」は使わなくなっている。「父方の」の方がよい。"부계"よりは"아버지 쪽"がよい。

「或る事情があって」の「或る」は"어떤"がよい。어떤は形容詞어떻다(どうだ、どんなだ)の連体形で「どんな&或る」と言う意味がある。「或る」も状況によって、いろいろな「或る」がある。この場合は"어떤"でなくてはならない。一言で説明できない複雑な事情である。

 初心者の場合はどう訳しても、初心者だからと相手が適当に解釈してくれてそのまま通用してしまう。見過ごされているといつまで経ってもネイティブには近づけない。1度ついたクセは直らない。最初が肝心。ちがう文化の国の言葉をそう簡単に話せるようになるものではない。言葉探求のプロセスを楽しむべきである。

"데리다(連れて行く)"だが、「連れて、・・・」は、日本語では同じ「連れて、・・・」でも、"데리고,..."なのか、"데려서,..."なのか、迷う。"데려"は"데리고"か"데려서,..."か、どちらの意味にでも使えると思って使った。しかし、はっきりと"데리고,..."と訂正された。こういう微妙なところ、どちらでもよさそうなことが訂正の対象になる。これは私がニュアンスが明確に分かっていないからである。

 それから、現代日本人は、韓国の友達言葉、は話せるようにはなっても、敬語と謙譲語は決しては話せるようにはならないと思う。韓国では「半言(パンマル)(ため口、友達言葉)」と丁寧語、謙譲語、敬語の使い分けはことさらに厳しい。戦後の日本にはすでに敬語と謙譲語は消失してしまっているから、そして、そう言う気持も消失しているから、おそらく理解できないのではあるまいか。間違えると大変なことになる。ただ、外国人だからと許されるだけであり、自分では話せると思っていても、本当の韓国語にはなっていないこともある。

 この「連れて行く」の"데리다"。これはあくまで同レベルの人、または年下、目下に対して使う言葉であって、目上の人、両親、先生に対しては"데리다"は使えない。必ず「お連れする。ご案内申し上げる。お供する」という"모시다"を使わなくてはならない。使い方は間違えてはいけない。

 そこに「居る」も、普通は"있다"だが、目上の人に対しては"계시다"となる。「食べる」は"먹다"だが、目上には「召し上がる」の"드시다"となる。すべての言葉にこういう区別がある。目上に対して敬意を表する心がなければ、韓国語は決して話せない。

 それから、書き言葉と話し言葉はちがうということです。紙に書けば全く同じフレーズを口にする場合、全く反対の意味になってしまうことだってあるでしょう。「ありがとう」でも、言い方ひとつで、いやみったらしいありがとうにもなる。大きなお世話だという意味にもなる。そう言うところを探求するのが言葉の勉強であり、好きでなくては無理である。

그러니까그래서:これはどちらでも書き言葉にしてしまえば、同じような意味になるけれども、「だから」であり、그러니까は固いのかな。그래서ならば「それで、・・」にすればひびきがいい。ことさらに「だから」というほどのことではないから。

 これは元々の日本語がきれいではなかった。『メッセージのやり取りはすべて英語「で」だから』⇒ 「メッセージは全部英語だから」とした方がすっきりする。原文の日本語を整理して、簡略にしてから韓国語に翻訳するとうまくいくことが多い。

『これは政治家の外交にも言える』
 永田町や霞ヶ関特有の言い回しというのは、英語や韓国語には翻訳されにくいのではないだろうか。余程言葉を尽くさない限り、微妙な意味は全部脱落してしまって逆の意味に取られてしまうとか。今回のTPP問題でも、のだ総理は海外でも国内でも全く同じことを言ったというが、まるでちがった受け取り方をされた。途中で翻訳という作業が入るということを忘れているのではないか。